四王寺山(大野城) |
【古代・中世・近代】
宝満山・四王寺山・大宰府の歴史は古代・中世・近代の3つに分類されます。
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7世紀の朝鮮半島 |
- 「古代」・・・西暦600年代の朝鮮半島で起こった「白村江の戦い」で当時国交があった百済の支援要請を受け(白村江の戦い)日本の朝廷は兵を送りましたが、唐軍連合に惨敗。 大宰府を唐軍の侵略から守るために、巨大な「防衛施設」を作りました。 大宰府政庁を防御するために四王寺山の麓~牛首までの平野部に木造の城壁を築き、堀を作り水を張り巡らしました。(この史跡が水城です)
- この水城を突破された事を考慮して四王寺、基山に朝鮮式山城を築きました。 この築城には日本に避難していた朝鮮・百済の人々が携わったといわれます。(日本最古の朝鮮式山城)
- 「中世・8世紀~戦国時代」・・・大宰府に左遷されていた菅原道真が死去し道真公の霊を鎮める為に「大宰府天満宮」が築かれました。923年の事です。
- 「蒙古来襲」で活躍した武藤資頼は宝満山の中腹に有智山城を築き活躍しました。 また戦国時代に秀吉軍であった高橋紹運は「九州制覇」を目論む「薩摩の島津軍」2万の軍勢相手にわずか7百名の家来と共に四王寺の中腹にある岩屋城で壮絶な最後を遂げました。 高橋紹運は岩屋城の他に「宝満城」を築きますがこの宝満城は現在どこにあったかは不明です。 武藤資頼が築城した「有智山城」を手直しして「宝満城」としたとも言われています。
- 近代・・・戦国時代から江戸時代に山伏を中心とした「山岳仏教」が急成長。古代より修験道の山として崇められていた「宝満山」は「繁栄」しました。 宝満山の正面登山道にある史跡のほとんどがこの時代に築かれました。 明治初めに行われた「神仏分離令」により、ほとんどの建造物は取り壊され、その史跡が現在も確認できます。
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大宰府近辺歴史年表 |
四王寺山は主に古代の史跡、宝満山の正面登山道にある多くの史跡は山伏たちが築いた史跡であることが分かります。 ちなみに「竈門神社」と「大宰府天満宮」とでは「竈門神社」の歴史は古い神社です。
大宰府政庁は四王寺山の山城や水城よりも古く建造されています。
大野城や水城は蒙古来襲の遥か以前(600年も前に)に建造されています。
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